ピアノっていいよね

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ソナチネって言うのがよく分からない人へ

ソナチネとは、クラシック音楽のジャンル名のことを言い、ソナティナなどとも言われます。


バロック音楽においての、ただの短い器楽曲のことをいい、カンタータの器楽合奏の導入曲や間奏のことを漠然とあらわすのに使われていました。


古典派音楽以降には、わかりやすくて演奏しやすい、短いソナタのことをいうようになりました。


たいていのソナチネでは、第1楽章は、ソナタ形式で作曲されますが、展開部が短く作曲されているか、展開部自体が存在しないことがあります。
楽章数としては、だいたい2章か、もしくは3章程度であることが多いです。





ソナチネは、ピアノを学んでいる人たちのために編集された"ソナチネアルバム"のためや、有名なピアニストや作曲家たちによる実践例のために、ピアノ曲のジャンルとされがちなのですが、実際にはそれ意外のソナチネも存在します。


ドヴォルザークの"ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ"などがあります。






ソナチネの作曲家として、幅広く知られているのは、モーツァルト、ベートーヴェン、クレメンティ、シューベルト、チャイコフスキー、カバレフスキー などが挙げられます。
今挙げた作曲家たち以外にも、たくさんの作曲家たちによって作曲されています。




ソナチネは、ピアノを学んでいる、いわばピアノの学習者の人たちが比較的簡単に弾きこなすことができるものである古典派のソナチネがほとんどです。


しかし、ラヴェルなどの近代以降の作曲家たちのソナチネの中には、難しい演奏技術や、洗練された音楽性を求める作品もあります。


後者は古典派のソナチネとは異なります。

ブラームスを知ってるかい、こんな感じです

19世紀のドイツの作曲家であり、ドイツ音楽における「三大B」の一人として知られている"ヨハネス=ブラームス"をご存知でしょうか。


彼の作風は、ロマン派音楽の範疇にありますが、古典主義的な面も強いといわれています。




ブラームスがベートーヴェンの後継者であると信じている人はたくさんおり、指揮者であるハンス・フォン・ビューローは、彼の交響曲第1番を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と呼び、今もそのタイトルが広く使われているほどです。




ブラームスは、1833年に生まれ、1897年に没する64年を生きました。


ハンブルクで生まれた彼に、最初のピアノのレッスンを施したのは、市民劇場でコントラバス奏者をやっていた父でした。
10歳のころ、ピアニストであり、作曲家であったエドゥアルド・マルクスゼンという人物に弟子入りをして、才能を開花させていきました。



彼はレストランや、居酒屋でピアノを演奏することで家計を助けました。


ブラームスは同時期のピアニストたちに比べ目立たない存在ではあったが、そのピアノの腕は、1859年と1881年に、ピアノ協奏曲第1番とピアノ協奏曲第2番の初演を自分で行ったところからも推測できます。


事実、この2曲は共に難易度が高く、これを弾きこなしたブラームスは、非常に高い演奏技術の持ち主だっただろうことがうかがえます。





10歳で弟子入りをした彼だが、19歳以前の作品は、記録はあっても現存しません。


なぜなら、次第に演奏活動よりも創作活動に興味を持っていったブラームスは、作曲を始めたが、自己批判から作品を廃棄してしまったからです。

ブラームスってこんな人だったらしい

ピアノの練習曲の作曲家としても有名な"ヨハネス=ブラームス"は、大くのロマン派の作曲家と同じように、ベートーヴェンを崇拝していた。


彼の個性は、ベートーヴェンに近いものがあったという。


自然を愛し、たびたび散歩にでかけては、たびたび子供たちに、キャンディをあげる。
その反面、大人に対しては、無愛想にふるまうことが多かったという。
自分の気持ちを素直に伝えることを苦手とし、自分の作品を語ることすらも嫌がるほどだったそうだ。



しかしながら、ピアニストとして優れていたため、友人のサロンなどで、たびたび演奏を求められた。


しかし、その要求に応じることはあまり多くなく、ときに応じたとしても、弾き飛ばして「早く終わらせてしまおう」といった様子を見せることが多かったという。


こうした性格から、時々人々を疎遠にもした。




彼には、ただ一人だが弟子がいて、名前をグスタフ・イェナーという。


グスタフ・イェナーによると、音楽的に間違った音はまったく弾くことを許さず、曲の出来が悪いときは容赦のない罵倒をあびせられた。


しかし、そのあとで、励ましの言葉をかけるなど優しい一面もあったそうだ。





ブラームスは、作品が人気を博し、経済的に豊かとなっても、質素な生活を好んだ。
朝はプラーター公園に散歩に行き、昼どきには「赤いはりねずみ」というレストランに出かけるのが彼の習慣だったそうだ。



彼のすごいところとして、自分が質素な生活を送る一方で、親戚たちへは金品を惜しみなく渡し、さらには匿名で多くの若い音楽家を支援したということだ。